「ネバーランドより」子どもの読書力

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 そもそも「子供の読書力」とは何なのだろうか。

 子供の読書力が低下した、という声が聞こえるようになって久しい。すでに二十年以上も前、作家いぬいとみこは自ら主宰する「ムーシカ文庫」の子供たちの読書力が落ちている、ということをなげいている。
 四十代のわれら元文庫生が集まっても、寄るとさわると「うちの子はかつての自分よりも本を読まない」という話題で盛り上がる。決して「本を読んだ」自分を誇るのでなく、「本を読まない」わが子および日本の子供の行く末を案じてのことである。

 しかし何をもって「読書力」と言うか。
 子供はもともと字が読めない。字が読めなければ文が読めない。文が読めなければ意味がわからない。意味がわからなければストーリーがわからない。ストーリーがわからなければ文脈、示唆、伏線、言葉のあや、どんでんがえし、といった、流れの中での機微がわからない。そして物語全体のおもしろさがわからなければ話の続きへの期待を感じることがない。そして期待がなければ次のページをめくることもない。
 つまり子供が自力で本を読むに至るまでには長い道筋を辿らなければならないわけだが、「本を読む力」は決して先天的なものではない。生活環境の中で身につけていかなければならないものである。私達「本を読んだ」世代も、無意識のままに家庭・学校・地域のどこかで「学習」していたのだろう。では読書力が低下している、というのはこの学習環境が劣化しているということなのだろうか。

 読書の原点である識字に関して言えば、学習指導要領の変遷をたどると答えはむしろ逆である。「子供時代に最も本を読んだ世代」である今の四十代が小学校一年生で習った漢字の数は46字、現在の一年生が習う漢字は80字。二年生では105字であったのに対し現在は160字となっている。今の子供のほうが倍近くもの漢字を習っていることになる。これで本当に子供の読書能力がそこまで低下しているのか、と首をひねりたくもなってくる。
 もちろん「読書力」が字を読む能力をさすことではないことは明らかである。そして「字を読む能力と関連づけられない読書力」の定義とは何か、と言うと、その答えもまた決して単一ではないだろう。

 では何をもって「読書力の低下」と言うか。
 「ふるき良き時代」をともに過ごしたいぬいとみことムーシカ文庫の子供たち。その子供たちがおとなになった今、主宰者であったいぬいとみこと同様に、口をそろえて「最近の子は本を読まない。」と言う理由。その答えはずばり、「昭和四十年代のはじめに自分たちが低学年で読んでいた本を、今の子供は小学校高学年になっても読めない」という現実なのである。

 あの頃のわたしたちは何を読んでいたか。
 『長くつ下のピッピ』に代表されるリンドグレーンの作品の数々、『ひとまねこざる』『百まいのきもの』をはじめとする岩波こどもの本、メアリー・ノートンの『床下の小人たち』。その他ルーマー・ゴッデン、グリーン・ノウのシリーズ、ドリトル先生などはほぼ小学校低学年・中学年のうちに読み終えていた。そして高学年から中学生にかけて、ナルニア、アーサー・ランサム、フィリパ・ピアス、ミヒャエル・エンデ、カニグズバーグ。
 こうして思いつくまま羅列するだけでも、改めて思うのは「今の小学生には読めない。」という現状である。

 「なぜこれらの本を読めなくなったか。」という問いの答えは複数あることだろう。しかし先日、私はある小学校の先生のひとことに衝撃を受けた。

「この翻訳では読めないでしょう。」

 断っておくが、彼はリンドグレーンの大ファンである。もちろん子供のころから大塚勇三訳の岩波版を愛読し、原書を読んだことのないまま今日に至っている。また、小学校時代にその他の児童文学作品も多数読んでいたという。その点では生え抜きのムーシカ文庫卒業生と何ら変わるところはない。ただ、中高年になって自分の子供がある程度育ったときに「今の子って読めないのね。」と驚いているわれわれと違い、彼は長年小学校の現場で三、四年生の読書教育に力を注いできている。そして三十年もの間、小学校中学年への読み聞かせを続けているのである。当然のことながら彼の受け持った小学生の読書能力は他の子供より高い。それでいて、彼は言うのである。「この翻訳では読めない。」

 子供がかつての自分と同じ本を読まない理由のひとつが翻訳にある、というのは目からうろこの新発想だった。もちろん翻訳に問題がある、といっても原語から日本語に転換するという翻訳作業そのものの性質の話ではなく、誤訳・悪訳をさしているわけでもない。少子化のうえに読書力低下のこの時代にあって、なおも書店の棚から消えることのない『ピッピ』シリーズ。翻訳を手がけた大塚勇三の洗練された日本語自体には微塵の問題も感じられない。むしろ外国語は得意でも日本語は得意ではないらしい最近の訳者による稚拙な翻訳とくらべ、それ自体文学の香り高い、高度に完成された一流の「作品」と言ってよいものだと思う。

 ただ、「今の子供」が読んだときにどう思うか。「とびきり上等」という言葉からすばらしくわくわくするものを想像するだろうか。「たいした子だよ!」というせりふを聞いてその子に会ってみたいと思うだろうか。おとながふだん使わない言葉に対して子供の反応が鈍くなることは避けられない。そして何より文体である。一つ一つの単語レベルよりも全体を流れる文章の雰囲気がやはり四十年前のものであることは否めない。これをこのままかつての自分たちと同じように受け入れることを現在の低年齢の子供に要求し、「読書力は低下している。一年生でピッピが読めないから。」と結論づけてよいのだろうか。

 『少年H』『五体不満足』『ハリー・ポッター』などのベストセラー作品は子供が活字の長編そのものが読めないわけではないことを証明してくれた。現代のおとなの課題は「次なる読書(読書習慣)」につなげることと、もっと低年齢層に活字を定着させることだろう。六、七歳でも長編が読めることは四十年前の子供が証明してくれている。

 そして遅くとも小学校三、四年生までに読んでもらいたい長編と言えばやはりリンドグレーンやメアリー・ノートン、というところに話は戻る。『ピッピ』や『小人たち』に中高生になってから出会ってはいけない、とは言わないが、やはり小学生のうちに読んで本気でその世界にひたってもらいたい。
 しかし離れていった子供たちをどう引き戻すか。実はそこに翻訳文学の強みがある。四十年前の訳が古ければ翻訳し直せばいい、という強みが。作者が書いたそのままの言語ではない、という弱みはここで「新しい時代の子供たちに合わせて翻訳し直せる。」という強みに大転換できる。児童文学の世界でのみ言える逆転の発想である。日本人作家によって日本語で書かれた作品を、私達は「少々古くなってきた」と言って書き換えるわけにはいかない。しかしこれが外国作品であれば…。リライトあるいは訳者の交替によっていくらでも生き残らせ、いつまでも子供たちに与え続けることが可能なのである。原作のおもしろさ、すばらしさを翻訳の範囲で最大限に残したままで。そして「ごたごた荘」「竹さんの靴」あるいは『ひとまねこざる』といった数々の名訳単語だけを新しい文体の中でもそのまま残しておくこともまた可能なのである。

 ふるき良き時代の品位を保ったまま、なおかつ現代の子供に喜ばれる新たなる翻訳を試みることは、「読書力の低下」を抑える一つの新しい方法論なのではないだろうか。
(2004年11月「ネバーランド」Vol.1に掲載)