きのしたあつこさんのこと
略歴
1944年(昭和19年)2月14日 木下彰、千鶴子の長女として仙台市にて誕生。
母方の祖父は仙石線設立者の山本豊次。
あとがき05:仙石線を墓碑にした男。山本豊次の生きざま|長沢めい
- 宮城県第一女子高等学校卒
- 女子美術大学卒
- 学校法人文化学園文化出版局勤務
- 株式会社和光勤務
- 1974年より、いぬいとみこのムーシカ文庫を手伝い始める
- 1976年より作家生活に入る
- 1980年12月21日 日本基督教団永福町教会にて受洗
- 2001年 7月8日 日本基督教団仙台広瀬河畔教会に転入会
- 2025年(令和7年)4月13日 逝去
作品目録
- 『はっくしょんのおくりもの』 きのしたあつこ 作・絵 / 偕成社 1978年
- 『ちょっとかして』 きのしたあつこ 作・絵 / 偕成社 1979年
- 『くらやみをこわがったフクロウぼうや』
- ジル=トムリンソン作 松永ふみ子訳 木下惇子 絵 / 偕成社 1983年
- 『こどものいのり』 船本弘毅 文 木下惇子 絵 / 日本基督教団出版局 1986年
- 『はんぶんあげてね』 きのしたあつこ 作・絵 / 日本基督教団出版局 1988年
- 『きょうはなにしてあそぶ?』 きのしたあつこ 作・絵 / 日本基督教団出版局 1991年
掲載誌
- 「こどものとも」付録「絵本のたのしみ」なぜ、絵本を読んであげたいのか 1980年10~12月号 / 福音館書店
- 「ムーシカ文庫の伝言板」15周年記念号 いぬいとみこ編 / ムーシカ文庫 1980年
- 「ムーシカ文庫の伝言板」その2 いぬいとみこ編 / ムーシカ文庫 1981年
- 「ムーシカ文庫の伝言板」その3 いぬいとみこ編 / ムーシカ文庫 1983年
- 「ムーシカ文庫の伝言板」その4 いぬいとみこ編 / ムーシカ文庫 1986年
- 「こどもちゃれんじ」におはなし(文と絵)を多数掲載 / 福武書店
出版物・原画は仙台市内にある仙台文学館に収蔵され、展示されています。
仙台文学館|ことばの杜をあるこう

きのしたあつこさんとムーシカ文庫
きのしたさんといぬいとみこ先生との出会いは、岩波少年文庫に関する講演だったと伺っています。きのしたさんは、東北大学教授になられたお父さま・木下彰さんから、幼少期より多くの絵本、児童書を手渡され、読書好きの少女でした。とくに、岩波少年文庫は当時出版のものをほとんど読破するほどだったようです。
おとなになって東京にお住まいだったころ、いぬいとみこ先生の講演を聴きにいき、「あの少年文庫を作ったひと」に会えたことに感激したといいます。そして、講演の終わりに「ムーシカ文庫の人手が足りないので、お手伝いに来てくださる方はいませんか」ということばを聞き、さっそく次の週にかけつけたとのことです。1981年12月発行の『ムーシカ文庫の伝言板 その2』への寄稿のなかで「私自身は文庫の仕事を手伝いはじめて今年で七年目を迎えました」とあるので、おそらく1974年のできごとだと思われます。
その後20年近く、公私にわたっていぬいとみこ先生のお世話をされましたが、その「公」のほとんどはムーシカ文庫のことでした。お父さまの介護のために仙台に帰られてからも、1988年に文庫が閉じられるまでムーシカのことを気にかけておられました。
いぬい先生の入院が長期におよぶことが予測された1996年、オオカミ原っぱの文庫の建物の維持が困難になったときも、きのしたさんが仙台からかけつけ、もうひとりの世話人、安藤房枝さんとともに、かたづけの作業をされました。
以後、文庫の本が益子の「まーしこ・むーしか文庫」に引き取られていくのを見送り、親族の清水しげみさんとともに、いぬい先生の私物の処分もされました(このとき、いぬい先生の私物蔵書につきましては、ムーシカ文庫卒業生の岡惠介さん、二川百重さんもたいへんご尽力されたことを、この場を借りて記述させていただきます。二川百重さん作成のいぬい先生蔵書リストもこのホームページ内に掲載します)。
2016年、練馬区立石神井公園ふるさと文化館にて、「いぬいとみこ展 ~ながいながいおはなしをみんなに~」が開催された折には、7月9日、風の子文庫の関日奈子さん、ロールパン文庫の小松原とともに座談会に登壇され、いぬい先生とムーシカ文庫の思い出を語られました。ちょうど土曜日の午後2時、ありし日にムーシカ文庫が開かれていた時間でした。
2024年7月、ご自宅で倒れ、緊急入院したときに末期の卵巣がんであることが判明、所属の仙台広瀬河畔教会の望月牧師夫妻と東京の従妹さんにみとられ、翌年4月に天に召されました。
きのしたあつこさんの思い出
きのしたさんとの初めての出会いは、中学生のときだったと思います。ムーシカ文庫の銀行時代から、オオカミ原っぱのちいさいおうちで文庫が閉じるまで、文庫に訪れればかならずといっていいくらい、きのしたさんは毎週そこにすわっておられました。文庫の子どもたちからは「きれいなお姉さん」として慕われていました。
私はもう大きくなっていたので、残念ながらきのしたさんの読み聞かせを聞いた記憶はないのですが、ほかの卒業生から「こわいおはなし」が得意だったと聞き、いちど聞いてみたかったなあ、と残念に思います。
私は中学生になってからは部活や受験、その他のことで忙しく、文庫に足を向けることが少なくなっていましたが、それでも、中高生時代、毎年のクリスマス会でお手伝いをした記憶や写真は残っていますので、きのしたさんともその頃から親しくさせていただいていたのだと思います。
大学生くらいになると、文庫のことやいぬい先生のご病気のことなどで、電話で長話をしたりもしました。いぬい先生は生涯独身で、しかも一人っ子でいらしたのでそのころはもうご家族がなく、網膜剥離で入院されていたときは、きのしたさんと伊藤郁子さんとで泊まり込みの看病をしておられました。
オオカミ原っぱの建物から文庫の本を片付けなければならなくなったとき、私はちょうど三女を産んだばかりで、ほとんどお手伝いができませんでした。近くに住んでいましたので、車を出したりはしたものの、赤ん坊を連れていったところでたいした役には立てず、結局、本を運んだり発送したりする重労働は、すでに50代になっていたきのしたさんと、世話人の安藤房枝さんのおふたりが一手に引き受けることとなりました。そのときにきのしたさんが傷められた膝はその後何年も引きずることになり、私もあのときもう少しなんとかできなかっただろうか、と悔いを残すことにもなりました。けれども、ムーシカ文庫をわが子のように思っていたきのしたさんは、やはり最後まで見届けるのがご自分のつとめと感じておられたようでした。
2002年1月、いぬい先生が亡くなられたあと、遺族の清水さんのお心遣いのおかげで、ムーシカ関係者が一堂に集まることができました。懐かしい世話人の方々のお顔が見られただけでなく、卒業生同士も、お互い初対面のようでありながら、同じ場所で同じ本を読んで育ったという絆は思いのほか大きく、その後もおつきあいが続くこととなりました。
なかでも、卒業生からあがった「ムーシカの思い出の文集をつくりたい」という声は、清水さんのご厚意のもと、一冊の書籍『ムーシカ文庫の伝言板 ~いぬいとみこ文庫活動の記録~』(2004年/てらいんく刊)として世に出されることになりました。私は原稿集めや編集に奔走するなかで、常にきのしたさんのアドバイスを仰ぎ、励ましに支えられ、きのしたさんの存在がなかったらできなかっただろうと思うことが何度もありました。メールや電話で何度もやりとりをし、ついに本が完成したときの感慨は忘れることができません。
出版をきっかけに、ムーシカ卒業生の輪はますます広がり、松永ふみ子先生のご子息・太郎さんを中心に新しいお交わりもできました。そして、いぬい先生亡きあとのムーシカ文庫では、その太郎さんもふくめた関係者すべての思い出の輪の中心にいたのは仙台のきのしたさんでした。
2016年、石神井公園ふるさと文化館でいぬいとみこ展の開催が決まったときも、多くの資料・情報・記録をきのしたさんが提供されました。世話人の立場でしか知りえない文庫の歴史の多くの扉はきのしたさんが開けてくださいました。
その後、プライベートでも、一緒に松島旅行に行ったり、仙台市内でうちの家族ともども一杯やったり、楽しい思い出はつきません。
2024年8月末、最近手紙やメールのお返事が来ないなあ、と思っていたところに、突然電話がかかり、「わたしは施設に入ってもう自宅に帰れないから、いぬいさんのサイン本をあなたもらってくださる?」と言われました。
翌日、所属教会、仙台広瀬河畔教会の望月牧師夫人のご手配により、いぬい作品の初版本がひと箱届きました。そして、そのお礼の電話とともに、9月の連休に仙台に行く旨を伝えました。私もクリスチャンなので、そちらの教会の礼拝におじゃまします、そのあときのしたさんの施設とご自宅にご案内いただけますか、とお願いすると、牧師夫人は快くご承諾くださいました。
翌週、自分の所属教会・武蔵野教会で牧師先生に「仙台広瀬河畔教会をご存じですか」と伺ったところ、なんと牧師夫人の基与恵さんは、武蔵野と非常に関係の深い方でした。
さまざまなご縁に驚きつつ、私はその後8か月にわたって基与恵さんのお世話になりながら、きのしたさんのもとに何度も通うことができました。
きのしたさんは、いぬい先生同様生涯独身で、ご兄弟はおられましたがお兄様も弟さんも先に亡くなられ、ご家族はありませんでした。けれども、基与恵さんと東京の従妹さんにみとられ、穏やかに天に召されました。
ご自身の体力には自信がなく、40代のころから「もうトシだから」「みなさん元気がいいわねえ。私はだめだわ」なんて言い続け、仲のよかった弟さんが亡くなられたときの落ち込みは本当に激しかったのですが、施設に入られてからはさっぱりしたのか、むしろ明るくなり、伺うといつも楽しげに思い出話をされました。
2025年2月14日には、病室でケーキにローソクを立て、基与恵さんと3人で81歳のお誕生日のお祝いをしました。すでに酸素チューブが手放せない状態でしたが、今までで一番明るい笑顔といっていいくらいニコニコして、ケーキを召し上がっておられました。そして、病室から携帯電話で、きのしたさんの盟友であり、きのしたさんが仙台に帰られたあともムーシカ文庫が閉じるまで世話人として最後を見届けた徳永明子(はるこ)さん(九州・きりん文庫主宰)と楽しそうにお話をされました。
きのしたさんは、ベッドのうえでいつも基与恵さんはじめ、まわりの方々への感謝の気もちを口にされていました。「わたしはこんなにみなさんにお世話になっていいのかしら」とおっしゃるたびに、「きのしたさんがご家族にもいぬい先生にもムーシカにも教会にも、ずっと尽くされた人生だったから、すべては神様からのごほうびですよ」と私が言うと、少し安心してほほえまれるのでした。ほんとうに、お話を伺うと、若いときからずっと、ほんとうのお母さま、お父さま、二度目のお母さま、そしていぬいとみこ先生の介護に大半が費やされた人生でした。とくに、いぬい先生が網膜剥離で入院されたときのお話は、一睡もしないまま夜を明かすなど、ほんとうの家族でもそこまでできない、と思われるようなことばかりで、私も忘れられません。
2025年4月13日、基与恵さんから逝去の連絡を受け、ムーシカ仲間の仲谷利理さんといっしょに仙台に向かいました。
教会での葬儀では参列者がみな涙し、お身内が従妹さんおひとりだったにもかかわらず、温かく慰めに満ちた野辺送りでした。葬儀の会場には、文化出版局時代の先輩であり、翻訳家であるこだまともこさんからのお花も届けられました。
遺影には、2015年9月にきのしたさんと松島旅行に行ったときに、仙石線創設者であるおじい様・山本豊次の石碑がある瑞巌寺前で私が撮った写真を、従妹さんが選んでくださいました。
ご自宅の書庫には、子どものときにお父さまに買ってもらったと思われる児童書の貴重な初版本が山のようにありました。おうちを相続される方がいないのですでに取り壊されましたが、その前に、絵本や児童書は基与恵さんのご協力によりおおかた救い出すことができ、大阪国際児童文学館、横浜YWCA、そして神保町みわ書房に送っていただきました。この場をお借りして、基与恵さん、児文館の土居安子さん、みわ書房店主三輪峻さん、仲谷利理さんにお礼申し上げます。
きのしたさんは、余命が決まられたとき、多方面へのご寄付を決められましたが、いぬい先生とムーシカ文庫も関わりのあったねりま文庫連絡会にも多額の寄付をいただきました。そのおかげで、文庫連は長年の課題であり念願でもあったホームページを作成することができました。
そのホームページの作成でお世話になったのは、徳永明子さんのご次男である、クラウドボックス社長・徳永健さんです。ホームページ完成まできのしたさんに見届けていただけなかったのは残念ですが、健さんにお願いすることをたいへん喜んでくださいました。この場をお借りして、きのしたさんご本人はもちろん、徳永健さん、明子さん、クラウドボックスのみなさまに深謝申し上げます。
ねりま文庫連 | ねりま地域文庫読書サークル連絡会
(イラスト:徳永健氏)

瑞巌寺にて 2015.9.14

松島旅行にて。2015.9.14
親子というには年が近く、姉妹というには離れすぎ、友だちというのも畏れ多く、なんと表現したらいいのかいつもとまどっていましたが…でも、まちがいなく、文庫で結ばれた「ムーシカメイト」でした。






