松永ふみ子先生のこと

年譜

1924年(大正13年) 東京市神田区小川町に今丼鉄次郎の長女として生れる。
1936年(昭和11年)12歳 東京市神田小川小学校卒業
1941年(昭和16年)17歳 東京府立第一高等女学校卒業
1945年(昭和20年)21歳 津田英学塾英文科卒業
1948年(昭和23年)24歳 画家、松永和夫と結婚。群馬県館林市に新居を定める。関東女子短期大学英文科教師となる。
1949年(昭和24年)25歳 長男太郎生れる。
1953年(昭和28年)29歳 上京。東京、神田駿河台に居を定める。
「レモン」開設。
1955年(昭和30年)31歳 慶応義塾大学文学部卒業。ジョージァ・シーロフ先生、 ロバート・ギトラー先生の知遇を受く。
1956年(昭和31年)32歳 次男淳生れる。
このころ、いぬいとみこさんのすすめで、「ホーン・ブック」に載ったD・N・ホワイトや、ヴァージニア・リー・バートンの児童図書、絵本に関する小文を訳して、「子どもの本棚」2、3号に掲載。
同人に小林静江、福知トシ、福光えみ子さんらがいた。
1958年(昭和33年)34歳 四ッ谷に引越す。
1959年(昭和34年)35歳 文京区本郷に土地家屋を求め、居を定める。
1964年(昭和39年)40歳 次男淳、喘息のため9歳で死亡。
1966年(昭和41年)42歳 5月、練馬区中村橋の清和幼稚園で開かれていた「ムーシカ文庫」を手つだい始める。
同文庫は1969年(昭和44年)富士見台駅近くの東京相互銀行3階へ移ったが、ひきつづき、土曜日ごとに本の読みきかせのため、熱心に通いつづけた。
ロバート・ローソン作『ウサギが丘』訳を、学習研究社より出版。
1969年(昭和44年)45歳 E・L・カニグズバーグ作『クローディアの秘密』(岩波書店)、アンドリュー・ラング作『フェアニリーの黄金』(大日本図書)出版。
1970年(昭和45年)46歳 E・L・カニグズバーグ作『魔女ジェニファとわたし』訳を岩波書店より出版。
1972年(昭和47年)48歳 E・L・カニグズバーグさんを、アメリカ、フロリダに訪ねる。
1974年(昭和49年)50歳 E・L・カニグズバーグ作『ロールパン・チームの作戦』(岩波書店)出版。
1975年(昭和50年)51歳 E・L・カニグズバーグ作『ジョコンダ夫人の肖像』(岩波書店)出版。このころ神奈川県大磯に居を定める。
1976年(昭和51年)52歳 E・B・ホワイト作『白鳥のトランペット』訳を福音館書店より出版。
1977年(昭和52年)53歳 8月、「ムーシカ文庫」立ち退きを命ぜられ、いぬいとみこさんとともに、練馬区貫井3丁目オオカミ原っぱに「ムーシカ文庫」の小さい家を建て、よろこぶ。翌1978年(昭和53年)1月、この家で「ムーシカ文庫」の新学期始まる。
E・L・カニグズバーグ作『ほんとうはひとつの話』(岩波書店)出版。
このころ喘息に苦しむ。
1978年(昭和53年)54歳 E・L・カニグズバーグ作『ぼくと〈ジョージ〉』訳を岩波書店より出版。
1979年(昭和54年)55歳 藤川照子さんと、神奈川県大機に子どものための「貝の火文庫」を開く。
「ムーシカ文庫」にも力をそそぐ。
1981年(昭和56年)57歳 「大磯の自然を守る会」に参加。
1982年(昭和57年)58歳 ギャヴィン・マクスウェル作『カワウソと暮らす』(冨山房)出版。長男太郎、富田直美と結婚。
1984年(昭和59年)60歳 E・L・カニグズバーグ小特集のための訳を雑誌「飛ぶ教室」(光村図書出版)に掲載。
ムーシカ文庫のクリスマスに藤川さんと出席、楽しくすごす。このころ喘息の発作、入退院をくりかえす。
1987年(昭和62年)63歳 3月10日、いぬいとみこさんの「路傍の石文学賞」受賞式に大磯から出席。ムーシカ文庫の徳永明子、小林伸子、飯島美智子、倉橋しおりさんたちと会い、いつもの笑顔でみなをよろこばせた。
5月9日、午前2時ごろ喘息の急激な発作で死す。

(松永 和夫 作成) (1989・102)
ウサギが丘
ロバート・ローソン作・絵
学習研究社(新しい世界の童話シリーズ18)
1966年11月18日
Rabbit Hill
Robert Lawson, 1944
フェアニリーの黄金
アンドリュー・ラング作
月田孝吉画
大日本図書(子ども図書館)1969年5月31日
The Gold of Fairnilee
Andrew Lang, 1888
クローディアの秘密
E・L・カニグズバーグ作・絵
岩波書店 1969年10月20日
From the Mixed-up Files of Mrs.Brasil
E. Frankweiler
E.L. Konigsburg,1967
魔女ジェニファとわたし
E・L・カニグズバーグ作・絵
岩波書店 1970年7月7日
Jennifer, Hecate, Macbeth, William
McKinley, and me, Elizabeth
E.L. Konigsburg 1967
キルディー小屋のアライグマ
ラザフォード・モンゴメリ作
バーバラ・クーニー絵
学習研究社(少年少女 新しい世界の文学 19)1971年
Kildee House
Rutheford Montgomery (written), 1949
Barbara Coony (illustrated), 1949
ロールパン・チームの作戦
E・L・カニグズバーグ作・絵
岩波書店 1974年7月8日
About The B'nai Bagels
E.L. Konigsburg, 1969
ジョコンダ夫人の肖像
E・L・カニグズバーグ作画
岩波書店 1975年12月10日
The Second Mrs. Giaconda
E.L. Konigsburg, 1975
自鳥のトランペット
E・B・ホワイト作
エドワード・フラスチーノ画
福音館書店 1976年3月10日
The Trumpet of the Swan
Elwyn Brooks White(written), 1970
Edward Franscino(illustration), 1970
ほんとうはひとつの話
E・L・カニグズバーグ作
岩波書店 1977年9月22日
Altoether, One at a time
E.L. Konigsburg, 1971
あかちゃんでておいで!
フラン・マヌシュキン作
ロナルド・ヒムラー絵
福音館書店 1976年3月10日
The Trumpet of the Swan
Elwyn Brooks White(written), 1970
Edward Franscino(illustration), 1970
ぼくと〈ジョージ〉
E・L・カニグズバーグ作・絵
岩波書店 1978年7月12日
(George)
E.L. Konigsburg, 1970
カワウソと暮らす――スコットランドの入江にて――
ギャヴィン・マクスウェル作
冨山房(冨山房百科文庫 34) 1982年3月22日
Ring of Bright Water
Gavin Maxwell, 1960
ぶらんこをこいだら
フラン・マヌシュキン作
トマス・ディ・グラッジャー絵
偕成社 1982年6月
Swinging and Swinging
Fran Manushkin & Thomas Di Grazia, 1976
くらやみをこわがったフクロウぼうや
ジル・トムリンソン作
木下惇子絵
偕成社 1983年6月
The Owl who was Afraid of the Dark
Jill Tomlinson, 1968
クローディアの秘密
魔女ジェニファとわたし
ロールパン・チームの作戦
ぼくと〈ジョージ〉
岩波少年文庫 1975年
〃 1989年
〃 1989年
〃 1989年
キルディー小屋のアライグマ
ラザフォード・モンゴメリ作
バーバラ・クーニー絵
福音館書店 文庫版復刊 2006年
Kildee House
Rutheford Montgomery (written), 1949
Barbara Coony (illustrated), 1949
白鳥のトランペット
E・B・ホワイト作
エドワード・フラスチーノ画
福音館書店 文庫版復刊 2010年
The Trumpet of the Swan
Elwyn Brooks White(written), 1970
Edward Franscino(illustration), 1970

松永ふみ子先生とムーシカ文庫

 
 E・L・カニグズバーグの初期の作品(『クローディアの秘密』から『ぼくと〈ジョージ〉』までの六冊の翻訳で知られる松永ふみ子先生は、1966年から亡くなるまで、児童文学者いぬいとみこが主宰する家庭文庫「ムーシカ文庫」の世話人として多くの子どもたちのためにご尽力くださいました。
 カニグズバーグだけでなく、E・B・ホワイト作品などの数多くの児童文学の翻訳者、画材店「レモン」(現・レモン画翠)の経営者、主婦、母……いろいろな顔をお持ちの先生でしたが、その人生のなかでムーシカ文庫が占める割合は決してちいさいものではなかったことと思われます。1977年には、私財を投じて、居場所をうしなったムーシカ文庫のために、いぬい先生と折半でオオカミ原っぱの家を購入しておられます。

 おさないころ、ムーシカ文庫でわたし(=ロールパン)はふみ子先生にとてもなついていました。小学生のときも、中高生のときも、ずっとずっと大好きで、大学の卒論ではカニグズバーグについて書き、卒業前の春休みには大磯のご自宅に遊びに行きました。
 カニグズバーグが来日したときに会わせていただいたこともあり、結婚式にもご出席いただき、ずっとずっとお世話になるつもりでいました。が、結婚後しばらく大阪で暮らし、二人目の娘を産み、夫の転勤でまた東京にもどってきたとき、いぬい先生から一冊の小冊子が届きました。タイトルは『松永ふみ子さんの思い出』。表紙をめくるとそこにはモノクロのふみ子先生の写真。思わずその本を取り落しそうになるほどの驚愕でした。

 あまりにも早く、あまりにも突然だった先生の死に、いぬい先生も茫然自失だったのかもしれません。亡くなられてからずいぶん長いこと、私は訃報を知らされていないままでした。
 『思い出』の小冊子には6人の文章が寄せられていましたが、4人目まではいぬい先生とムーシカ文庫世話人の木下惇子さん、徳永明子さん、小林伸子さん、5人目は上野瞭さん、そして6人目がわたしの名まえになっていました。いぶかしく思って開いてみると、児童文学季刊誌「飛ぶ教室」の『作家カタログ/E・L・カニグズバーグ』のコラムでした。ふみ子先生のご紹介によって、ロールパンが人生で初めて「出版社の依頼をうけて文章を書き、原稿料をいただいたお仕事」をした記念すべき一文です。けれども、ふみ子先生の思い出そのものを書かせていただくことができなかったことがとても残念でしたので、のちに『ムーシカ文庫の伝言板』にこの冊子を収録したときは、このときに先生のご逝去を知っていたら書いたであろうことを書き、差し替えました。
 『伝言板』P254~P257に掲載した「思い出三話」がわたしからふみ子先生へのほんとうのオマージュです。そして、この三つ以外のたくさんの思い出も、わたしのなかから消えることはありません。

松永太郎さんとロールパン文庫

 
 松永ふみ子先生のご子息、太郎さんは、ご自身もすぐれた翻訳家になられました。→松永太郎さんの翻訳書
 わたし(=ロールパン)と太郎さんがほんとうの意味で初めて出会ったのは、2002年にいぬい先生が亡くなられたあと、松永家が半分所有していたオオカミ原っぱの家の名義をいぬい先生のご遺族・清水慎弥さんに移行する契約のときでした。
 その移行は非常に和やかに行われ、そこで知り合った太郎さん、慎弥さん、夫人の清水しげみさん、そしてわたしの楽しいおつきあいがはじまりました。それがのちにレストラン「トラットリアレモン」における、ムーシカ文庫や児童書関係者とのカニグズバーグ新作の読書会、さらに太郎さんが講義をする市民大学講座「英語で映画を楽しむ会」とも結びつき、太郎さんの魅力に引き寄せられて集まった人々の、「サロン・ド・レモン」ともいうべき輪ができあがったのです。

 わたしが自分の家庭文庫の開設を考えていることを知った太郎さんは「おかあちゃんの本をぜんぶあげるよ」と、おっしゃってくださいました。五十代後半でも「ぼくはいくつになっても死んだおかあちゃんのことが忘れられないのさ」と堂々と「マザコン宣言」をする太郎さんが、たいせつなふみ子先生の本をくださることに、驚くとともに心からの感謝をせずにはいられませんでした。そのとき、わたしの文庫は「松永ふみ子記念文庫」にしようと心に決め、文庫の名まえもふみ子先生のライフワークとも言うべきカニグズバーグの訳書のなかから「ロールパン」ということばをとってつけたのです。

「ぼくはおかあちゃんの年より長生きしたくないんだ」と言っていた太郎さんが、そのことばのとおりに、2010年11月にあまりにも若くして、あまりにもとつぜんに----ふみ子先生とおなじように---世を去られてからも、ロールパン文庫の歴史にとって松永太郎さんはふみ子先生とともに、とてもたいせつな存在です。

 太郎さんとお交わりを持ち、そのお人柄にふれたのは亡くなられるまでの8年間でしたが、じっさいにはロールパンは1976年の11月にもいちどお会いしています。ムーシカ文庫のたった一度のバザーにレモンの文具を届けにいらしたときです。渋滞にまきこまれて3時間も遅れてしまい、終わるころに届いて売れ残ったノートやえんぴつをロールパンの家(実家)でおあずかりしたのでした。段ボール箱をいっしょに運びながら並んで歩いた太郎さんは、背が高くてかっこいいおにいさんでした。ロールパン16歳、太郎さん27歳の秋でした。
 30年の時を経て再会した太郎さんは恰幅のよいダンディーなおじさまになっておられましたが、ひと目見てすぐにわかりました。あまりにもふみ子先生にそっくりだったからです。