「ネバーランドより」子ども啓蒙するということ

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 子どもになぜ本を読んでもらいたいか。
 子どもをなぜ啓蒙したいと思うか。

 それはことばを伝えたいからである。子どもがことばを知り、理解し、他者とことばを共有し、やがては自分の思いを自分のことばで伝えられるようになってもらいたいからである。

 前のシリーズでも書いたとおり、子どもとおとなの読書には明らかに違う点がある。おとなは自分で本を選び、その選び方に自分で責任をもつことができるが、子どもはそうではない、ということである。
 好きな本、読みたがる本だけを読ませておけばいい、読書は楽しくなければ意味がない、という考え方にもある意味一理あるが、私としては子どもの読書について放任することには反対である。それでは文庫は必要ないのである。何でもよければ、子どもを図書館や大きな書店に連れて行って、ほしがるものだけを与えておけばいい。
 食事はおいしく楽しくなければならないが、好きなものだけ食べさせておけばいいのではないのと同じ理屈である。好きなことをし、好きなものを食べ、好きなことを言っていればよい、というのは子どもだけでなくおとなにさえも通用しない。

 たいていの親はその点はわかっているものであるらしく、
 「どんな本を読ませたらいいかわからないのです。」
 と困っている人が多い。これはむしろ喜ばしいことであって、悩みもしない親のほうがこわい。子どもの読書のことで悩んでいるお母さんに相談されることはこちらとしては大変うれしいことである。
 「ではうちの文庫にいらしてください。ここにある本ならどれを読んでもだいじょうぶですよ。」
 と言えるからである。子どもにも親にも好みがあるから、「どれをとっても気に入る」とは言わないが、読ませておいて心配な本はない、ということである。

 では、どんな本が良くてどんな本が良くないか。
 内容の品性、善意、子どもへの愛情深さ、といったことはもちろんであるが、今回はことばの問題をとりあげたい。

 子どもは本を読むことによってことばを覚える。
「字が読めなくてもしゃべるではないか。」
 と言われそうだが、基本的に話しことばと書きことばは完全に一致するものではない。ひっきりなしにしゃべっていても文章はまるで書けない子ども、そしておとなの、なんと多いことか。

 人間は耳で聞いたことばを口で話し、目で読んだことばを手で書くようになる。つまり聞いたり話したりしているだけでは、文章を書けるようにはならないのである。そして絵本は人が人生において初めて書きことばにふれる場所である。絵本に描いてあるうつくしい絵を見ながら、耳では家族や先生が読んでくれる声を聞いている。しかしそのことばはいつものように話しかけてくることばではない。文字となり活字となり、印刷されて本になることを前提とした「書きことば」である。幼児はおそらく新しい歌や音楽にふれるような感動をもって絵本のことばを聞くであろう。母の声、先生の声であっても、それは自分ひとりに話しかけられたその場かぎりのことばではない。
「○○してね。」
「○○はだめよ。」
といった刹那的なことばではなく、この場とちがう空間、自分とちがう人物が登場する別世界でのできごとが語られる。その驚き。その新鮮さ。ことばはそこで初めてストーリーというものをもつ。

 テレビがこの世に登場したとき、私が子どもだったころのおとなは、子どもが初めて新しい世界にふれる処女航海のチャンスを映像機械に奪われてしまったことを激しく嘆いたものだった。そこには書きことばがない。そのうえ動く映像は一枚の絵からふくらませる想像力を完全に封印してしまう。
 今となると当時のおとなたちの危機感は痛いほど理解できる。しかし時代を後戻りさせることはできない。「テレビ世代」と呼ばれて育ったわれわれが今おとなになり、こんどはビデオやインターネットの中で育っている子どもたちのために、何ができるかを模索しているところなのだ。

 話を元に戻そう。子どもを啓蒙する大きな目的は、書きことばを身につけてもらうことである。そしてその書きことばは読書によって習得されるものである。ということは、最初に与えられる書きことばは正しく美しい日本語でなければならない。子どもは小鳥のひなの「刷り込み」現象のように、最初に学習したものを後々までも自己の内部に保存するからである。
 子どもは気に入った絵本があると、何度でも読んでくれとせがみ、そのうちにそのことばをまるごと覚えてしまう。『クシュラの奇跡』では、のべ三万冊の絵本を読みきかせてもらったダウン症児のクシュラが絵本の中のことばを覚え、やがてそのことばを、TPOにふさわしく使いこなしていく様が書かれている。時間と労力がちがっても、それは子どもすべてが通る過程ではないだろうか。ただ、一般的には「話す・聞く」の話しことばの能力も一緒に発達するので分野別の発達の様子がはっきり区別できず、親もコミュニケーションの方を重視するために、書きことばの発達・未発達は見落とされがちなのだと思う。
 わが家の娘も絵本のことばをよく暗誦していた。くりかえし読む絵本は、ページをめくる前に次のことばを言っていた。さいごには、まるごと一冊さいごまで覚えてしまい、そこに本がなくても最初から終わりまでひとりでそらんじて悦に入っていた。
 そうやって活字から覚えたことばは、意識するしないにかかわらず、本人の書く文章に少なからず影響を与えるものではないだろうか。
 それはおとなにも言えることである。

 最近はインターネットの発達によって、メールという新しい文化が定着してきた。そのおかげで会う機会が少ない友達とも疎遠にならずに済む。わざわざ電話をかけるほどのことでなくても、互いの近況報告やご機嫌伺いを気軽にメールで伝えられるからである。おもしろいことに、結果的にはメールという媒体によって個々の「書く」機会はふえ、それまで手紙などくれたことのないような相手の文章にもふれられるようになった。そして文章というものはやはりそれぞれのクセが大きく出るのであるが、中には会話をしているときとまるでちがう雰囲気の語り口のメールをくれる人もいる。

 ある時、頻繁にメール交換をしている知人の一人から、彼女の愛読書を借りたことがある。そのとき、その本の文体と、彼女の書きことばの独特のことばづかいがそっくりであることに気がついた。そして、ふだん話しているときは、彼女はそういう話し方はしないのである。やはり自分がよく読むことばというのが、書きことばに影響を与えるのだと思った一つの大きなきっかけだった。
 ましてや子どもは自分の文章のスタイルというものを持っていない。ことばの使い方もこれから知ろうという年齢である。子どもはゼロからのスタートで、本から書きことばを吸収していく。その第一歩が貧しいことば、品性のないことば、きたないことばでは困るのである。おおげさに聞こえるかもしれないが、それはその後の人生を左右すると言ってもいい。人は「思い」をことばにするのではない。「ことば」によってものを考えるのである。聖書のヨハネ伝にあるとおり、「初めにことばありき」なのである。人は、その人のもつことばによって思考する。貧弱なことばしかもっていない人は貧弱な考え方しかできず、まちがったことばしかもっていない人はまちがった考えしかもてない。
 そこまで言わなくとも、と思う人も、一度ならず他人の文章によって傷ついたことはないだろうか。あるいは誤字脱字だらけの手紙を受け取って誠意が感じられないと思ったり、意味の通じないメールをもらって不信感をいだいたりしたことはないだろうか。同じことを自分もやってしまって恥じたことはないだろうか。

 多くの犯罪者は、自分は理解されていない、と感じているという。他人が自分を理解しないのは、自分が他人に自分を伝えることばをもたないからだ、ということに彼らは気づいているだろうか。死刑囚となってから読み書きを覚え、著書『無知の涙』の中で、「あのとき自分に教育があったら罪は犯さなかった」と語った殺人犯永山則夫の悲しみは真実だと思う。両親を殺そうとして逮捕された少女のホームページに、文章ではなく自分の手首を切った血まみれの写真ばかりを掲載しているのを見たとき、私はことばをもたない子どもたちが生きている世界の心の貧しさ、寂しさを思って愕然とし、思わず涙が出そうになった。

 自立し、幸せな人生を送るためには「語るべき自分のことば」が必要であり、「自分のことば」をもつためには「自分で書く」ことが必要であり、「自分で書く」ためには「読む」ことが必要であり、そして「読む」ためには「読むにふさわしい本」が必要なのである。私は幼い子ども、若い少年少女にこそたくさんの良い本を読んでもらい、多くのすばらしい世界に旅してもらいたいと思う。そのために、一冊でも多くの良書を子どもたちに手渡していくことがおとなのつとめだと思うのである。
(2006年3月「ネバーランド」Vol.6に掲載)