「ネバーランドより」文庫育ちの子どもたち

1

 私たち四十代は、もしかしたら一番しあわせな子ども時代を過ごしたのかもしれない。それが「文庫」の黎明期でもあり、同時に最盛期でもあった、という点で。

 石井桃子はじめ、いぬいとみこ、松岡享子、といった大物作家たちが文庫を開いた昭和四十年代から五十年代にかけて、子どもたちは、「ただ本を読むために」文庫に集まり、おはなしを聞き、本を読み、借りて帰った。私が通っていた、いぬいとみこ先生の「ムーシカ文庫」には、最も多いときにはゆうに百人を超える子どもたちが集まった。本は一週間に一人二冊までしか借りられない約束であり、子どもたちは、常に飢えたように本を開き、読みふけり、その日借りる本を慎重に選びとった。ボランティアの「文庫のおばさん」が常時数人いて、貸し出しや読みきかせを行い、本の修理や文庫の諸費用は、会員から集める月100円の会費でまかなわれていた。もちろん、本代や備品はいぬい先生と翻訳者の松永ふみ子先生の私財、そして、その他の労働はボランティアのおとなたちの厚意にささえられていたはずだが。それにしても、文庫活動はたくさんの会員(子供たちと、その保護者)によって成り立っていたのであり、立派なひとつの社会活動であった。
「であった」、と、過去形で書くのは、今、そのような文庫活動がどのくらい正常に、なおかつ盛んに行われているのだろうか、と思うからである。少なくとも、人数の点から言っても、百人あまりの会員をかかえる文庫は、もうないと言ってもいいのではないだろうか。

 もちろん、「家庭文庫」の本来の役割から言えば、会員の数は多ければいいというものではなく、本を開く子どもが十人でも十五人でもいれば、それが文庫の価値である。
 「文庫」は「図書館」とはちがう。何がちがうかといって、文庫は「毎週通うもの」なのである。図書館は、行きたい人が行きたいときに行くものだ。その代わり、休館日以外はいつ行っても開いているのであり、その人の都合のいいときに訪れればいいことになっている。
 けれども、文庫は、子どもが「通う」ことに意義がある。そして、決まった曜日の決まった時間に子どもがその場に集い、そのときにしかない独特の空間に身をおく。その時間、文庫は、ただの「本がある場所」ではない。本のスピリットというか、本を開く者同士の共有の空気というか、そういうものがある場所になる。おとなであっても子どもであっても、それは同じ空気、同じにおいだ。そして文庫が終わる時間になって、子どももおとなも家に帰ると、本たちは眠りにつき、次の目覚めのときまで、しばしそれぞれの夢を見る。文庫は、そういう場所なのである。

 今、少子化の時代に、文庫の数、そして文庫に通う子どもの数が減っていることは事実だと思う。「文庫」は「BUNKO」という英単語にもなり、世界に広まりつつあると言われているが、おひざもとの日本では、「文庫」という言葉そのものを知らない子どもたちがふえているのではないだろうか。私は今、私立の女子高で講師をしているが、先日、高校二年のクラスで文庫の話をしたところ、「文庫って何ですか」と聞かれてショックを受けた。そして、「文庫って何だか知ってる人」と挙手させたところ、手を挙げたのは十人たらず、そして他の生徒たちは、「…学級文庫?」と言って顔を見合わせるだけだったのである。さらに唖然としたことには、「私は家で文庫を開いて、子どもたちに本を貸しているんですけど」と話し出したところ、一人の生徒が、「それって、お金とるの? もうかるんですか?」と言ったのである。

 女の子ばかりの、それも良家の子女が集まる私立の女子高。そういう学校に入学してくる生徒たちの、子ども時代の読書環境というものは、いかばかりのものなのか。もちろん文庫に通わなかったからといって、読書経験が貧弱であったということにはならないが、「ちいさいときに何を読みましたか」という質問に、何も答えられない生徒のなんと多いことか。「ちいさいとき」がそれほど昔でもないはずの彼女たちが、ようやく思い出せるものといったら、ディズニーか、テレビのアニメ絵本くらいなものなのである。

 『ひとまねこざる』も『ちいさいおうち』も、知らないなら知らないで仕方がないが、それに匹敵するほかの本を一冊も読んだことがないのだとすると、それはやはり問題だと思う。文庫でなくても、両親のひざで、保育園や幼稚園の読みきかせで、あるいは放課後の図書室で、「ああ、たしかに私はあの時代、あの本を読んだ」と言える一冊がなくて、どうして豊かな人生が待っているだろうか。

 私たちの子ども時代、文庫はやはり偉大な存在だった。私たちはそこに本があるから集まったのであり、そこにいる時間、本を読む以外の何もしていなかった。
 少し年上の小学生たちが、字の多い分厚い本を読んでいる姿にあこがれ、いつか私もあの本を読むのだ、と心おどらせたあの日。ずっとずっと先のいつかは読めるようになるだろうと思っていた本が、ある日気がつくと自分の手の中にあったときの感動。それは、「文庫」という空間以外では味わえない幸せだった。今も思い出せば、あの頃のよろこびがよみがえる。

 その幸福を、もちろん自分の子どもをはじめ、次の世代に伝えたい。しかし、この草の根の活動も、時代とともに様変わりしていく。図書館や図書室が充実し、読みたい本がいくらでも読める環境。子どもに本を買ってやれるだけの経済力をもった親。それだけでなく、子どもになるべく多くの本を与えようとする、知的レベルと意識の高い親。さらに、レンタル産業や、リサイクル業の進歩、発展。「読みたくても読めない」子どもなど、今の日本には皆無のように思える。家庭文庫の存在意義は薄れつつあると誰もが思う。
 けれども、今の子どもたちには、目に見えない制約がある。「読みたくても読めない」子どもはたくさんいる。
時間がないのである。

 わが「ロールパン文庫」には、常時六十人近くの子どもたちが来る。自宅の一部屋を使った家庭文庫の会員としては、破格の数だと思う。しかし、これは実は単なる数字のマジックである。その六十人のうち、現時点で、「自分はロールパン文庫に通っている」という自覚をもっている子どもはほとんどいないかもしれない。何のことはない、自宅のプリント学習教室とひとつづきになっている部屋が文庫になっているのである。公文式の学習に来た子どもたちや、迎えに来た親たちが、文庫の部屋でひとときを過ごす。プリントの採点を待っているあいだに、ふと開いた本にのめりこんでしまって、帰るのを忘れる子どもがいる。迎えに来た子どもが、まだ学習が終わってなくて、「早くしなさい」とぶつぶつ言いながら、いつのまにか本を読み始めて腰を上げなくなるおとながいる。

 ロールパン文庫はふしぎな空間である。
 私が通っていたムーシカ文庫とは、明らかにちがう、六畳一間の小さな北向きの部屋にすぎない。けれども、天井まで届く本棚に三方を囲まれた「ちいさな本の小部屋」は、どうやら子ども主役の王国になっているらしい。ただ本が並べられているだけで、読みきかせをしてくれる先生もいなければ、世話をしてくれるボランティアもいない。けれども、一冊の本を開いて交代で読みあう友だち同士、低学年の子に読んであげる高学年の小学生、学習中の自分の子どもを待つあいだ、よその子どもに読んであげるお母さん、そのまわりにいつのまにか集まる子どもたち…。
 私の仕事は、ただ、そこに、「ぜひこの一冊を」と思う本を並べるだけ。けれども、いつか、「あそこの文庫に通っていた」と言ってくれる子どもが現れるのではないかとひそかに心待ちにしている。いや、現われなくてもいい。「どこでだったか忘れたけど、子どものころに、たしかにこの本を読んだ」と言ってくれる人が一人でもいれば。

 ロールパン文庫は、子どもたちがつくりあげた文庫だといってもいいかもしれない。主宰者である私は、実は「文庫を開こう!」という意気込みをもっていたわけではなかった。たまたま開いた学習教室。そこには、公文式のきまりで「すいせん図書」を置くことになっていた。そこで、仕方なく、「そういう言葉は好きじゃないんだけどなあ…」とぼやきながら、指定の何冊かの本を並べておいた。すると、子どもたちが目を輝かせて、「これ、読んでいいの?」と読み始めた。その姿がうれしくて、「そんなに読むなら、これも出そうか」と、昔から集めていた秘蔵の本を少しずつ置き始めた。やがてどんどん並べていくうちに、場所がなくなって、とうとう寝室だった部屋をあけて、ひと部屋まるごと本の部屋にしてしまった…。そして、せっかく本の部屋ができたのだから、名前をつけて「文庫」にしようか、と思い立ったのだった。
言うなれば、「はじめに子どもありき」だったのである。

 ロールパン文庫を開いて、もうすぐ四年になろうとしている。そういういきさつで作った文庫だから、「正統派」ではない、という忸怩たる思いが常につきまとっていた。ここにいる子どもたちは、れっきとした「文庫生」ではなく、公文教室のついでに本を読んでいるにすぎない…。
 けれども、このコラムを書きながら、私は「それでもいいではないか」という、開き直った気持ちになってきた。週二回の教室日に貸し出される本の数は平均三十冊ほどにもなる。貸し出し中の本は、常に百冊前後である。それだけの子どもが、それだけの本を読んでいることになる。おそらくは、「わざわざ本を読みにだけいらっしゃい」と言えば、来なくなる子がほとんどである。けれども、それは、言い換えれば、「なかったはずのチャンス」を子どもたちに与えていることになるのではないだろうか。
「ついで」の何がいけないのだろう。子どもたちは、文庫の部屋にいるあいだ、ほかに何もしないで本を読んでいる。たとえそれが目的で訪れたのではなくても、そこで本と向き合う時間を得たことにかわりはない。

 文庫の姿はひとつではないと思う。
 かつてあったような純粋な「家庭文庫」が一つまた一つと消えていったとしても、日本の「文庫」を残す方法はいくらでもあると思う。時代とともに、かたちややり方は変貌していっても、子どもたちが読書のよろこびを共有する空間をもつことの大切さは、いつまでも伝えていきたい。

 今、私の試みは始まったばかりだけど、次の世代がどういう文庫を持ち続けていくか、想像するのが早くも楽しみになっている。
(2007年10月「ネバーランド」Vol.9に掲載)